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私が離婚協議書作成の業務を取り扱うワケ 1部

行政書士の橋岡です。今回は業務とは直接関係のない内容になりますが、なぜ私が数ある行政書士の業務の中で離婚協議書の作成を取り扱っているのか、そのワケを記事にしてお話ししたいと思います。私は離婚協議書の作成のほかにビザ(在留資格)各種申請取次、建設業許可申請を専門としています。ビザ(在留資格)の申請取次と建設業許可は我々行政書士業界の中では割と王道で取り扱っている先生も多くいらっしゃいます。ビザ(在留資格)と建設業許可に関しては行政書士の独占業務です。ビザ(在留資格)に関しては入管に届出することによって弁護士も扱えるようになりますが、基本的には許認可業務なので行政書士が専門となります(以前書いた記事のとおり)。ですが離婚協議書は非独占業務です。これはどういうことかというと行政書士でなくても扱えるということです。離婚問題というと一般的には行政書士よりも弁護士や探偵を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。行政書士には探偵のような調査権限もありませんし、弁護士のように代理人になって調停や裁判に参加したり仲裁合意を取り付けたりすることも当然ですができません。大事なことなので何度でも申し上げますが、あくまでも夫婦で話し合って決めた事を書面にすることが仕事の内容となります。また、書面にする上での相談であれば応ずることが出来ます。ですが、日本の離婚の約8~9割は協議での離婚であることもまた事実であり、協議で決めた内容を書面にするということはお二人の人生の再スタートに立ち会うということだと私は感じています。こんな素晴らしい瞬間に立ち会う機会を頂けるということは予防法務家として大変光栄なことだと思っています。それではなぜ、私がこのように離婚問題における協議書の作成業務を選んだかを書いていきます。


長い話になります。3部か4部に分けて書きますのでどうかお付き合い下さい。

ノンフィクションです。

ずいぶん昔の話になりますが、私の両親も私が幼いころに離婚しています。30年以上前です。まだ、離婚家庭が今ほど表面に出てきておらず、そんなに多くなかった時代だと記憶しています。私が3~4歳くらいのころでしょうか。私の記憶では気が付いたら父親はいませんでした。母親も重い精神病を患い、祖父母と一緒に暮らしていたのをうっすらと覚えています。保育園の頃に突然、明日から苗字が代わると言われたのを鮮明に覚えていますが、なぜ苗字が代わるのかを理解することが出来ませんでした。保育園の先生はちょっとつらそうな顔で他の園児たちに説明していたような気がします。ですが、園児たちはそんな事理解できるはずもなく、卒園するまで二つの苗字で呼ばれていましたが、私自身もその意味を理解していないので特に何も感じてなかったような気がします。母親が長期で不在だったことについても祖父母から重い病気にかかり、入院しているからと説明を受けていました。小学校に上がるとだんだんと理解力と判断能力が備わってきます。入退院を繰り返す母親を見て『あぁ、自分の家は少しおかしいのかもしれない』と感じるようになり、自分になぜ父親がいないのか、なぜ母親はこんな風なのかを深く考えるようになりました。そこからしあらくして、あれは忘れもしない、小学校3年生のときです。母親は退院してきていて、母親と私でボロアパートに二人で暮らしていました。母親に突然『学校なんか行くんじゃない!』と言われ、1人でラジカセに向かってブツブツ言っていました。この光景は目に焼き付いています。そのあと約半年間、軟禁状態で、食料だけは何とか買いに行かせてもらえたので、毎日1000円ほど渡されて母親のタバコ(当時は220円とかでした)と二人分の食料を買いに行く日々が続きました。するとある日突然、私の叔父と祖父が家にやってきて狂ったように暴れる母親を抱えて連れて行きました。私は祖父の車の後部座席でその姿を見ていました。その後は名古屋でも有名な精神科の病院に一緒に行き、祖父母や叔父、叔母と一緒に担当医の説明を受け、自分の置かれていた状況が最低な環境だったと理解しました。確かあれは夏休み中だったと思います。私はしばらくの間叔父と叔母(母親の妹夫婦)の家に引き取られ面倒を見てもらいました。叔父と叔母には娘がおり(私の従妹)、そこで初めて父親と母親という存在がどんなものなのかを知ると同時に、なぜ自分の家とこうも違うのかと疑問を感じるとともに幸せそうな従妹に妬みを覚え、自分の境遇を呪うようになりました。思えばこのころにはすでに心が荒む兆候があったのかもしれません。夏休み後に小学校に復学したのですが、当然勉強の内容も理解できず、学校でも噂になっていた為、友達も最初は戻ってこなかったことを覚えています。『母ちゃんにお前と遊ぶなと言われたから遊ばない』と言われたこともありました。勉強もできず、周りにも馴染めず、心を許せる家族もいない。まだ10歳やそこらの子どもです。いま思えば、ただの甘えです。できないことを周りのせいにして腐るのは簡単で、こんな状況でもがんばる子はがんばるし、私はがんばらなかった。それだけの話なんですけどね。でも当時は派手に横道に反れる勇気もなく、なぜテストでいい点が取れないのかと叱責を受け、なぜ勉強をしないのかと問われ続け、叱られ続けることも我慢していました。小学校5年生の時に母親が退院してきて、また二人暮らしが始まりました。ここから中学を卒業するまでは比較的症状が落ち着いていましたが当然働くことはできず、生活保護を受けて生活をしていました。中学を卒業してからは、私が限界でした。もう、家に帰るのも嫌で、何もかも嫌で、運命を父親を呪い続け、なんとか進学した高校を3ヶ月で退学になり、バイト先で正社員として登用してもらうも、安月給が嫌になり退職、自暴自棄になっていました。16歳やそこらでしたね。このころはもう家に帰ったり帰らなかったり、どうやって生活していたんだろう(笑)。あまり覚えていないですね。


やはり長い話になりますので、今回はこのへんで区切ります。離婚協議書の作成業務を選んだワケにはまだまだたどり着けそうにありません。もうしばらくお付き合いください。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

それではまた。

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